寝返りをうち、口の中がえらく乾いてることに気づいた。
自分は寝ていたらしい。
さらりとしたシーツがほてった肌に心地よい。
だが、頭は朦朧として、全身に汗をかきひどくけだるい。
クラシックが流れている。久しぶりに耳を響かせるヴァイオリンの心地よい波動。
「具合はどうだ?」
焦点が合わなかった瞳に、ぼんやりと人の影を認識した。
声を発するのも億劫で、唇がひくついた。
ぼんやりとした視界の中、人の影が大きくなる。
唇に塗れた感触を感じ、心地良い冷たい液体が口の中に満ちる。
優しく髪をなでられ、遠い日が脳裏に浮かんだ。
ほてった身体を居心地のいいベッドにくるまれ、優しい顔に瞳には心配を浮かべ、優しく髪をなでる両親の存在。
思い出は脳裏で連鎖し再生される。
『・・・フィル、外にでたら誰がお前を待ってくれている?』
『会社にとって人間とは歯車だ。お前が引き抜かれた後のように、今でも誰かがお前の後でそれなりにやっている』
『世間は常に動いている。会社や組織に意志はない。求めているのはいつだって人間のほうだ。だからこそ、人を求めるのも人でしかない』
『言い換えれば、会社は成長も衰退もどちらも望む機能はない。それを望んでいるのはつねに人だ』
『一年以上離れているお前を会社が、社会が待っていてくれるというのか?情報が劣化したお前は社会に受け入れられるのか?』
どこまでも深く暗い胸の空洞。今確かにベッドにいるはずなのに、黒い霧に閉ざされた光が見えない穴に自分は居る。
それは突然恐怖となって荒れ狂う。
「・・・ぅ・・・あ」
大きく見開いたはれぼったい目から涙があふれた。
怖くて怖くて、手足をばたつかせ身体を丸めた。
誰も自分を見てくれない。仕事ができない自分など、何の価値もない。何の価値も見いだせないことがとても怖い。
このまま小さくなって消えてしまいたかった。
ハッハッと獣のように、確かに繰り返し短く呼吸しているのに、呼吸をすればするほどに苦しい。身体がこわばり、小刻みに震え始める。死を間近に感じ、さらに恐怖が増す。
この苦しさが続くなら、いっそ早く終わってほしい。
「・・・ル、・・・ィル・・・フィリップ!」
がちがちに強ばった身体を引っ張られ、顎をしっかり押さえつけられ、がさがさしたものが口に押し当てられる。
「そのまま息をするんだ。なにも怖くない」
恐怖に混乱した頭では何も考えられない。何をいわれているのかも判別しない。
ただ、早くなっていた呼吸が、何度もがさがさ音を立てているうちに、次第に楽になっていくのを感じた。
「ゆっくり大きく息を吸ってご覧」
髪を再度なでられた。
今度は何を言われたのか理解できた。言われたとおり、目をうっすら開けて意識して大きく息を吸って吐いた。
「そう、良い仔だ」
何度も呼吸を繰り返していると、こわばった身体が弛緩する。
ただでさえだるかった身体は、もう指一本すら動かすことができない。
口元に押さえつけられていたもの−紙袋をはずされ、自分の顔を見つめる人をはっきりと認識した。
また、脳が恐怖で引きつりはじめるのを感じた。
自分のおびえが伝わったのだろうか。その人は目に緊張の色を少し浮かべて、ゆっくりとまた髪をなで、もう片方の手でシーツの上から背中をなでた。いたわるように。
病気の子供をなだめるように。
「わたしが誰だかわかるか?」
軽く頷いた。
「お前のフルネームは?」
「・・・フィリップ・クロネンバーク・・・」
かすれた弱々しい声で答える。
「過呼吸を起こしただけだ。ああ、少し熱があるようだ。」
いつのまにかアクトーレスがそばに来ていた。サイドテーブルから何か取り出し、俺の耳に押し込んだ。すぐにピッと電子音が響く。
「たしかに、発熱しています。」
「寒いか?」
首を横に振る。
「熱いか?」
うなずく。声をだすのも今は億劫だった。
いくつか質問した後、氷嚢と薬を用意するといって部屋を出て行った。
あらためて見渡すと、ここはクルビルムだ。いつのまに運ばれたのだろうか。
今まで、ベッドの脇に立って、のぞき込むようにしていた「主人」がシーツの上に身体を横たえる。
そして、シーツの上から俺を抱き込んだ。
耳元でささやかれる。
「お前はもう戸籍上では死んでいる。そして、お前の両親は先日飛行機事故で亡くなられた。旅行中だったらしい」
脳は動かない。しかし、知らず流れた涙を唇で吸い取られ、目や額や頬にふれるだけのキスがされる。
「再度聞こう。お前を誰が待っている?」
のどがひくついた。胸の黒い霧が脈打つのを感じる。さらに色が深くなり完全に闇になってしまったようだ。
それでも、この恐怖を生み出した支配者は答えを求めている。
「フィル、お前はここから出たら誰に真っ先に会いに行きたいんだ?」
今、肌に触れる体温がある。俺一人ではないことを感じさせてくれる。
「・・・だ、だれもいない。みんなお前らが奪ってしまったんじゃないか、俺の仕事、俺にはそれしかなかったんだ!」
俺の時間を奪われたことによって仕事も奪われたんだ!
固く抱きしめてくる「主人」の胸に頭を押しつけ、それでも嗚咽が漏れる。誰かのせいにしたかった。誰かのせいにすることで、何もない自分を否定したかった。
「言っただろう。仕事は会社はそこにあるだけだ。望むのは人でしかないと」
残酷な支配者は俺が悲嘆に縋るのを許さない。
「人、人、人・・・!ここでは主人と犬だろうっ、あんたは俺をどうしたいんだ」
頭を抱えていた両腕を手首でとられ、顔の両脇に押しつけられた。
「私はお前の話をしてる。人を人としてみていないのはお前。自分に都合の良いうわべの関係を求め続けた結果が、ここに存在している理由だ。今おまえが主人ではなく、犬なのは、お前がしてきたことの結果だ」
真剣な両目が深い色をして俺を映し出している。俺が犯した俺に似た犬。あの少年は本当にいたのだろうか?
過去を思い出している内に幻視したのではないだろうか。
会社組織に「忠実」であったのに、移籍したため俺の「忠実」に裏付けがなくなった結果。
走れなくされ、ここからでることができない少年。
この身以外の全てを取り上げられ、ここに放り込まれたた俺。
互いに主人らに目をかけてもらわなければ生きていられない。
しかし、互いに心底主人に忠実で在れなかった結果。
「人を愛せない人間は良い主人になれない。愛するということは大切にするということだ。人を愛せない人間は何一つ大切にできない。大切だと思われないことがわかっていて、換えのいる場にいつまでも置いておくほどまた人は寛大ではない」
だから「犬」にされたのか?どうしてだ?俺は俺の地位を守るために必要な人は大事にしてきていた。会社を大事にしてきた。
愛がからまなくてもその待遇はかわらないじゃないか。
愛に至らなくても十分じゃないか。
頭の片隅で起こった反発は唇を震わせるだけで、言葉にならなかった。胸に浮かんだ反発は理解していることを認めたくなくて、だだをこねていることにすら気づいているからだ。
「お前は十分に利口だ。今度ここから逃げ出しても、ハスターティやミレペッダに捕まることがわかっている。だから、ここから正当な手段で逃げ出すことも考えている。が、その計画を保証できる情報がなく、そもそも計画を立てるのに必要な情報も不足している。そこがお前の弱点。人を愛し、信じることができないから、友人を仲間を作ることができない。このヴィラでは愛し愛されることだけがすべてだ。その形はいろいろあってもね。その愛を失うことは、自分の命を失うことに等しい」
わからない。わかりたくない。
ここは・・・そう、世界が違う。愛情ってそんなに大事な物なのか?所有欲や独占欲を言い換えているだけじゃないのか?
どうしても言葉は出なかった。
「主人」が額をあわせ、目を閉じてささやく。
「私から服をはぎとり、私を侍らせてのんきに食事したりして、どうにか私になりすましてここから出ること考えていたとしよう。そのときどんな気分だ?『主人』を『犬』として従えることができて満足か?自分を客として扱うスタッフをあざ笑うか?・・・ここをでることに不安は全くないか?」
俺はもう顔を合わせていることができなかった。見られていることが辛かった。
顔をシーツに押しつけ嗚咽を漏らした。
主人はそっと手首をはずし、俺を胸に抱き込み横抱きにする。
今、こうして俺の背中や髪、顔をなでてくれていることに縋ってしまいたかった。声を上げて泣いた。
状況を見通し、裏をかくのが当たり前の社会と生活が全てだった。そこから、自分一人だけ連れ去られ、まるで知らない言語の世界に放り込まれて、不安なのを見透かされたくなかった。自分が馴染んだ世界がすぐ隣にあるのをわかり、戻りたかった。すべては悪夢だったのだと思いたかった。そして、もう戻れないと確信すること、自分がこの世界に合わせて変わることが怖かった。
心が裂けて泣くのも、泣き疲れるまで泣くのも久しぶりだった。
***
大男のアクトーレスは、室内でドアにもたれかかりフィルの泣き声が消えるまでじっとしていた。
『大人の振りをした子供』
あの夜、「主人」はフィルをそう表現した。
そして、それが的確であったのを今証明した。
フィルを焦らすこと。
自分の過去を思い出させ、語らせること。
自分に似た犬を犯させること。
犯すほうと犯されるほう、どちらかを選ばせること。
これが、「主人」が提示した調教の基本プランだった。
事前にフィルは犯されるほうを選ぶと「主人」は断言しそれを説明していたが、それでも不安はあった。
最後、犯すほうを選ぶのではないかと思ったが、完全に見込み違いだった。
カウンセリングで自分に媚び売る時期もあったが、まったく通用しないとなると鼻にもかけなくなった。ふてぶてしいと思い、一層監視を強めなくてはならないとそのたびに思った。
フィルは、元の生活に戻れないことを承知していたが、彼はそれを認めなかった。
まるで、身体の成長に追いつけない少年のようにあがいていた。
それに気づけなかった自分は、まだまだだと思う。
そして、そこにつけ込んだ手腕をこの目で見ることができて満足している。
フィルはこの「主人」を認め、受け入れるだろう。逃亡することにもう意味はなくなったのだから。
そして、それは新たな不安を呼ぶ。
(もうしばらく先の話なのだから、今はいい)
軽く首を振って、ベッドサイドに立ちフィルが寝ているのを確認して、「主人」に氷嚢と薬を持ってきたことを合図した。
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